読書 琴古流尺八史観 序

本文中、私とは、著者 中塚竹禅

以下本文

 

ーー琴古流尺八史観ーー序ー

 

琴古流とは何ぞ。

尺八とは何ぞ。

 之は最も古くして最も新しい問題である、最も平凡にして最も特殊な問題である、最もやさしくて最もむずかしい問題である。

 心ある人々は是非共この問題について沈思黙考して貰いたいと思う。

特に今現に尺八を習いつつある程度の前途ある青年尺八家に此れを望みたいのである。

 君は一体何の為に尺八を吹くのかと問われて即座に適格にソレに答えられるようにして置いて貰いたい。

 サモない限り君の尺八は一身上に於いても社会的に見ても全く無用の長物だと言われるような事にならんとも限りません。

 

 尺八が私共の生活と密接離るべからざる理由のある事は過去一千五百年の尺八の歴史が之れを証明するのである。

 如何なる名論卓説を以てしても此生きたる事実を抹殺する事は出来ないのである。事実は最大の雄弁である。外国はいざ知らず少なくとも日本に於いては之は真理である。

 

 過去現在未来は三にして一なるものだという思想は貴重な思想である。過去は現在である、現在は未来であると考える事は一身に取っても一家に取っても一国に取っても如何に重大なものであるかは今更冗言を要しないでありましょう。

 ソコに歴史教育が生まれるのである。歴史教育は一身一家一国存立の意義目的を明らかにする事である。存立の意義目的を明らかにせずして存立を主張する理由ありや。何のために尺八を吹くやを知らずして尺八を吹く理由ありや。琴古流とは何ぞ、尺八とは何ぞという問題は一日一刻も忽にすべからざる理由は茲にあるのであります。

 

 歴史の研究は古き過去の現象を知って楽しむ骨董的な学問ではない。新しき現在の自己に課せられた意義と使命とを知って今日一日を最も大きく最も力強く最も有意義に生きんが為めの思索的手段である。自覚と理想は此深き施策の結果である。先ず尺八の歴史を知らなければならぬ。之が私が此史観執筆を思い立った動機であります。

 

 所で此史観では所謂史観であって流史ではない。史的観察である。私の観たる琴古流琴古流は斯くあるべきもの、斯くあらざるべからざるものという私の観察、此れが此史観の意義であります。

 史観は流史でないから私の観察上必要と認めた部分や人物に対しては惜気もなく長文を弄したが、サモない部分や人物に対しては出来るだけ省略の筆を用いた。要は如何にせば琴古流尺八なるものを一目の裡に要約する事が出来るかという、之が此史観執筆の方針であります。

 

 此史観は此数年来本誌に寄稿したものを骨子として新たに想を錬り直したものである。勿論史観は史実に基いた観察であって決して私の根も葉もない空想論や独断論ではありません。皆夫々正確な資料に拠って書いた、従って其準拠した資料は出来るだけ原文の儘掲載する事にした。之は一つには琴古流資料を一目に見る事の出来なかった従来の不便を補い、又一つには時日の経つにつれて煙滅の虞ある大切な資料を一先づ整理して他日に備えて置く事は此際最も必要な事であると考えた結果による事である。之れが此史観の内容であります。 

 

私の観察の違った所は遠慮なく訂正して貰いたい。又新しい資料や史実を発見された方は是非共ご教示を願いたい。ソウして他日立派な正確な琴古流史を編む事が出来るように全琴古流人は一致協力して貰いたい。ソレが最も我が琴古流ーーー否尺八全体を愛する者の執るべき崇高な態度であると信じます。

 

此史観の執筆に当たって未見既知の竹友から色々有益な資料や知識の提供をして下さった事を茲に感謝致します。特に左記からは無断或有断で多大の引用をさせて貰いましたから、茲に其事を明かにして置くと同時に謹んで御礼申上げる次第であります。

 栗原広太先生著 尺八史考       吉田一調家御所蔵 尺八資料

 彭城一調先生御所蔵 尺八資料     川瀬順輔先生御所蔵 竹友社文庫

 中尾都山先生御所蔵 明暗時巻物    藤田鈴朗氏主幹雑誌 三曲

 倉部信治氏主幹雑誌 芸海

 

 本論は勿論此目次に従って述べますが其前に極く概略の事を知って置く事は自他共に都合がよいと思いますからホンの当座の参考という意味で荒筋だけを申上げて置きます。

 

 先ず尺八は千五百年前に、あらゆる日本文化の祖であらせられた聖徳太子の英明にして崇高なる御人格を指導精神と仰いで発達した。爾来宮廷の奥九重の雲深く、やんごとなき御方の御手に持たれ御唇に触れて、畏れ多くも高貴なる精神的訓練をした事は尺八の歴史上特筆大書せねばならぬ事柄である。側近に奉仕する所謂雲卿月客が之れに追随して尺八は先ず一番最初に雲の上の音楽であったのであります。

 

 次に当時の上流にして唯一の有識階級であった僧侶の手に渡り宗教の訓練を受けた。僧侶から武将の手に渡った。朝に一城をを抜き、夕に野末の露と消ゆる当時の武将に身に取って如何に此尺八が重要な役割を演じたかは想像に余りある事である。人生を明暗の二字に縮約する法灯国師の普化禪的尺八が日本へ来たのも此時であります。あらゆる日本芸術の爛熟された足利時代が来た。尺八も亦此文化の波に乗って音楽的に自覚した。一般町民の間に普及する端緒が開かれたのである。所謂尺八の門戸開放であります。

 

  然るに幸か不幸か徳川期に到って武士の浪人の為めに此折角開きかけた尺八の花が無残にも引きちぎられたのである。即ち普化宗の法器として虚無僧に非ざれば尺八を吹く事を得ずという鉄壁がソレである。一般町民は此鉄壁の為めに法規的には尺八から全く交通遮断されたのである。此鉄壁の為めに折角琴や三味線より一歩早く音楽的に自覚した尺八が完全に彼等に先を越されたのである。之れは尺八史上実に遺憾に堪えない事であるが、然し又其代わりに武士的訓練即ち武士道の洗礼を受けたという利益もあるにはあるが、其是非や損益は今以て判りません。ソコへ現れたのが我琴古流の流祖黒沢琴古先生である。先生は普化宗本山一月寺指南番という重要な責任の位置に立たれて、如何にして此尺八を善導しようかという事に苦心をされた。即ち一方には神韻広大無辺なる尺八精神を強調すると共に、一方には音楽的尺八として並行芸術たる琴や三味線を少なくとも同等の地位を保ちたいと苦心をされた形跡が見える。然し背には此重い尺八精神を負い、前面には普化宗法器としての高い鉄壁が横たわって居たが為めに、何等の束縛もない自由な立場にある琴や三味線と音楽的競争をする事は実際上不可能な事であった。結局尺八は尺八独自の道を歩くより外なかった。之れが尺八独特の音楽が生まれた理由である。

 いよいよ明治維新という更に新しき文化に直面して我琴古流尺八が如何にして其本来の使命を果たすべきかという事が考えられた。爾来七十余年、日夜貴重なる苦闘が続けられて今日に到って居る次第であります。

 

 以上が尺八一通りの歴史的課程である。従って琴古流を研究すれば尺八が判り、尺八を研究すれば日本人が判り、日本人を研究すれば人間は何の為めに生きて居るかという事も判る訳である。少しく言を飾るようではあるけれども我琴古流尺八は私共日本人の言わんと欲する所のものを殆んど言い盡して居るといっても決して過言でないように思われる、否言わんと欲して言盡せず、語らんと欲して語り盡せない所に我琴古流尺八の一大特色があるようであります。

 琴古流尺八は六ケヶ敷い、ソレは当然である。ソレは結局此六ヶ敷い琴古流を生んだ日本人其物が六ヶ敷い人種である如く、琴古流も亦世界中で一番六ヶ敷い音楽である。今之をドノ程度まで表現し得るかというのが此史観興味でもあり目的でもあります。ドウか其積りで讀んで頂きます。

琴古流尺八史観

以前、ヤフーのブログで読書感想や説明文・現代語訳を記述していましたが、しばらく放置していた間にヤフーのブログが廃止されていました。

 

内容の移行も出来ずに日記や読書や写真も全部無くなってしまいました。本人の記憶がほとんど失われているので記録が無いのは残念です。

 

これから再度スタートしていきますので、また読んでやってください。

自粛の日々で

週に3日だけの仕事で朝2時間だけで帰宅。通勤に2時間半かかって2時間だけの仕事、割に合いませんが我慢です。
だいぶメタボが進んできて、なんとかしなければ。

読書で昔の本を読み返します。

普化宗史 高橋空山、琴古流尺八史観 中塚竹禅、尺八史考 栗原廣太f:id:nattoran:20200512005721j:plain